雪崩講習会

第15回パドルクラブコラボ雪崩講習会をテイネハイランドで行いました。

雪不足であった昨シーズン、北海道では5件の雪崩死亡事故があった。うち2件は外国人スキーヤーがその犠牲となるものであった。今シーズンはコロナの感染拡大で外国人スキーヤ-の訪れはほぼ、ないだろうが、その分

過当なパウダー争奪戦はなくなり多くの日本人、とりわけ北海道民がバックカントリーへパウダーを求めて入り込んで行くだろう。

 

私は1990年に単身アメリカのユタ州、パウダーの聖地ソルトレイクシティへ1か月間スキー修行に出かけた事がある。そこで居候生活をしながらスノーバードやアルタ、パークシティなどのスキー場へ毎日バスで通ってパウダーを滑りまくった。そのうち地元のアメリカ人たちとも顔見知りになり一緒にパウダーエリアへ、そしてバックカントリーへと出かけて行くようになる。「ビーコンを持ってないなら一緒には連れて行かないぞ」と言われ仕方なくピープスの安ビーコンとシャベルを買う。

 

その頃のユタ州では毎年50人もの雪崩犠牲者が出ていて、州法でビーコンの装着義務があり、また各スキー場はダイナマイトやキャノンを使った雪崩コントロールを行っていた。スノーバードスキー場で知り合ったスキーパトロールの話では大雪が降った翌朝はスキー場へ行く道路を閉鎖して

パトロールたちは早朝から200本ものダイナマイトを使って雪崩コントロールを行い、その後道路封鎖を解いてスキーヤーたちを招き入れるという話だった。

 

1990年4月ヨーロッパアルプスの「オートルートツアー」へ出かけた折にシャモニーで思い立って「ピープス457」というビーコンを10台購入して日本へ持ち帰った。ビーコンは1人で持っていても要はなさず、また当時の日本でビーコンの販売は行われていなかったため、まとめ買いをして自分の主催するパウダーツアーの参加者たちに無料で貸し出し装着してもらった。日本で初めての組織的ビーコンの導入であった。

 

札幌にある北海道大学の山岳部や山スキー部、ワンダーフォーゲル部などの山系サークルでは過去にに多くの雪崩事故の犠牲者を出していた。ワンダーフォーゲル部のOBであるF沢君は大学を卒業後に雪崩研究の第一歩を同大学の低温科学研究所に所属して歩み始める。

 

1991年1月北大山スキー部OBであるAB氏の呼びかけで海外から講師を招き、札幌のテイネ山で「日本初のビーコンサーチ実演会」が北大の学生を中心に一般人も交えて行われた。その頃の日本では「雪崩に巻き込まれたら助からない」が常識であったのだが、ここからF沢君、ABさん、HGさんら北大勢が強力なタッグを組み雪崩教育を確立して一気に流れが変わっていく。1992年、札幌の秀岳荘ではAB氏の強い要望もあり「オルトボックス」のアナログビーコンの輸入販売を始める。確か50台くらいがすぐに売り切れたように記憶する。当時2万円程度したビーコンは貧乏登山家達には

高価なおもちゃぐらいにしか思われていなかったのだが。

 

アナログビーコンでの埋没者捜索方法は受信の音を聞き分け、接近するに従いレンジを変えて捜索範囲を絞っていくというまさにアナログなシステムであった。ところが1994年、待望のデジタルビーコンが登場して時代はi一変することになる・・・・

続く…

札幌 登山 ガイド アルパインガイド 宮下岳夫